Osamu World
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鬼子
2010年3月2日火曜日
鬼子というのは、自分(達)と異なる容姿の子や民族、人種等を指すことばでいわば差別用語です。
以前、あわれな「ヨシキリ」と社会構造を書きました。そこで、社会はそこから「はみだした」者を認知できないことを指摘しました。この「はみだしもの」も概念的には「鬼子」ということができます。
私たちは、様々な理由で社会から簡単にはみだす可能性があります。身体的問題、浪人、留年、怪我、病気、出産、解雇、倒産、解散、クーデター、戦争...マジョリティーが社会を形成し、この社会の構成員からはマイノリティーの姿が見えません。
具体的な問題を逐一書くとそれはそれで問題が多く、立場上もそうすることができないと思っていますので、このように概念的に一般化していろいろな主張を行っています。しかし、無形の概念を説明し、理解して頂くのは極めて困難です。
ただ、次のような例を一般論としてあげることができますのでいくつか挙げます。
病気で苦しんでいる人に対して「がんばれ」
容姿で悩んでいる人に「そんなことないよ」
就職できない人に「だいじょうぶだよ」
このような言葉は、人を気遣ってかける側面を持つ一方、全く親身になっていない無責任な言葉としての側面もあります。私たちは、もっと気を使う必要があります。悩み、困っている人は、そんな「言葉」を期待しているのではないのです。具体的に何をどうすれば良いのか、そんな答えであり、答えへと続くヒントのようなもの、あるいは、きっかけでしょう。
私たちの社会にはいつの時代にもいわゆるヤンキーがいて町の鼻つまみものです。私たちは、彼らをどのように見ているでしょうか。私は、個々人は彼らを見ているものの社会としては認識していないと思います。彼らの考えや思いに一切耳を傾けようとせず、排除のみを考えています。
様々な局面で、概念的に同じ排除作用が働いています。排除されていると感じている者には、これが手に取るように分かりますが、マジョリティー側の者には全く理解ができません。
会社など様々な形態の組織の構成員一人一人は「鬼子母神」について知っておく必要があります。多くの子の母でありながら、一方で子を食らう。私たちは、社会の、組織の中にいてこれのために必要なことを行っている一方で、何らかの理由で鬼子となってしまった者を知らず知らず排斥している。数千年前から概念として同様の事柄が起こっていて、今の世の中でも全く状況は同じです。
私は、今までもこれからも心はヤンキーでうんこ座りでがんばっていきます。これが最大限の宣戦布告です。トホホ
都電には「鬼子母神前」駅があるようです。副都心線では「雑司が谷」。今度行ってみよっかな...
宗教には興味は無いのですが、どうもまじめに考えると答えはいつもそこに書いてあるって感じですね
人類の英知はすごいです
現代社会の浅はかな経済の論理とは大違い!!!
写真は拝借